猟期終了

2003年2月15日
西表島のカマイ猟が終了した。
11月15日に始まって2月15日まで続いたこの狩猟期間、たくさんの猟師が山へ行き、カマイとの間にそれぞれのドラマが繰り広げられた。
大猟した人、不猟だった人、カマイの返り討ちにあって負傷した人、この3ヶ月間村はカマイの話題しかなかったといってもオーバーではないだろう。
僕も今年も猟友会員として山に入り、いろんな経験をつませてもらった。
山に入って2年目のまだ新入りの若造だが、2人の熟練猟師と組んだおかげでたくさんのカマイを獲ることが出来た。
山奥で大猟し、死にそうになりながら運び出してきたこと。一日に6頭も獲れて、盛大にお祝いしたこと。初めて自分の罠にカマイがかかった喜び。初めてひとりで山に入った不安。初めてひとりでカマイを取ってきた感動。いつも感じている生き物を殺すという罪悪感、いつも感じている西表の恵みに授かり、生きている喜び。オジーの技の素晴らしさ、獲ってきた夜に飲む酒のうまさ。
今年自分で決めていたのは山に専念すること。実は西表は冬しか出来ない遊び、楽しみがたくさんある。そのほとんどを我慢して山にばかり行っていた。週に5日は山だった。
やっぱりカマイ獲りは干立の文化だ。この文化と、カマイは、絶やすことなく受け継いでいかなくてはいけない。

先週山に行った時、小さなカマイがかかっていた。僕はそれを逃がしてあげた。その夜オジー達と飲んでいると、その話を聞いたカマイを獲って50年以上になる大先輩の猟師が「いいことだ。そのカマイは来年子どもを生んで大きくなって獲れるだろう」というような意味のことを言った。そしてその時に言う秘密の呪文が、昔からあるということを教えてくれた。
それは現在ではそのオジーともう一人の大先輩しか知らないらしい。
何とかして教えてもらおうとたくさん酒を飲ませたけど、「それは丸秘さ」と教えてもらえなかった。

いつかその呪文を教えてもらった時、本当のカマイ獲りになれるのかな?

青年会キャンプ

2002年10月13日
10月11日〜12日の一泊二日で、僕の所属する西表青年会のキャンプが行われ、僕もいってきました。本来だと6月頃行う予定だったんですが、ある事情で延期になっていたものをこの日におこなったのです。

西表青年会というのは僕の住む干立と隣部落の祖納に住む青年の集まりで、昨年八十周年を迎えた歴史の古い青年会です。

これまでキャンプはいつも砂浜でおこなっていたんですが、今回はちょっと趣向を変えようということで山中でのキャンプになりました。ある川を舟でさかのぼり、一時間ほど歩いた広い川原にベースキャンプを作ってそこからさらに二時間ほど上流に歩いたところにある地元の人間でもなかなか行った事のない幻といわれる滝を見に行くコースです。

西表青年会は総勢30名ほど。会員はかなり個性派ぞろいで、職業を見ても 漁師 猟師 郵便局 医者 農夫 電気屋 土かた などなど、その道のプロがたくさんそろっています。今回の参加者は13名でした。まあ、日程を決めたのが5日前なので多く参加できたほうでしょう。参加者の中で滝に行った事のあるのは3名ほど、他のメンバーは初体験でした。
その滝ですが、かなりの風格・迫力・威厳をもっており、僕は西表の滝で一番好きなところです。道のりは険しく途中ヒルや大ムカデ、ハブなど危険な動物にも襲われハードな行程だったのですが皆滝にはかなり感動して、喜んでいました。連れていった甲斐があるなあ。

やっぱり自然の中に行くと自然から力をもらって、すごく肉体的にも精神的にもパワーが出ます。みなの表情も良かったな。
この夜は川のせせらぎと満天の星に包まれて、仲間との団結をさらに深めました。

ちなみに今回は野外技術の研修も兼ねていたので持っていった食料は米と味噌、塩・しょう油のみ。アウトドア雑誌で見るような道具類も一切無し。夜の食事は山菜とエビ、川魚、ハブなど現地調達したものでした。寝るのもブルーシートにくるまったり、岩の上に直接寝たりなど、西表だから出来る?キャンプでした。でもそのぶん自然と深く関われたと思います。

帰るとき、余った一升瓶を隠してきました。何年後か、またここでキャンプする時に飲むために。

干立ペンション村

2002年10月10日
今日「干立ペンション村」の建設業者入札がありました。ようやく、この事業が形としてスタートしたことになります。
この「干立ペンション村」事業とは、国・県・町が進める「体験滞在型交流事業」の一つとして干立の空き地に貸別荘型の宿泊施設を計10棟造り、公民館が管理運営して滞在者に干立の文化や自然を体験してもらい地元の人と交流をするという目的で行われるものです。
行政がハコ物を造って地域に押し付ける典型的な公共事業ともいえます。反対意見の人も多いようですが、公民館総会で推進していくことが昨年決まりました。この一年はその準備で僕もいろいろ関わってきました。

西表島には素晴らしい自然が残されています。それを目的に年間300万人近くの観光客が訪れています。最近はエコツアーと称して、より自然を体感できるタイプの観光も人気です。
でもそんなツアーに参加する人たちを見ていて、本当の西表を体験しているのかな?と疑問に思っていました。観光船に乗ってマングローブを見たり、西表にきて間もないガイドに連れられて滝を見に行ったり。確かにそれだけでも都会から来た人にとってはすごい体験なのですが、でも西表はそんなものじゃない。そしてそれを体験させてくれるのは、ヤマトゥーのエコツアーガイドではなく西表で生まれ育ったオジーオバーなのです。
彼らの自然に対する知識、技術はすごい。図鑑で勉強した知識ではなく生まれた時から自然と関わり、自然を利用し、自然と戦い、自然から恵みを受けてきた中で身につけたものだから。そしてその中で育まれてきた文化。かつて日本中にあったが今は失われてしまった大切な精神がここの文化には残っています。
僕が考える西表は決して手つかずの自然、ヤマネコの住む未開のジャングルの島ではなく、自然と人の素晴らしい関係が残された島です。これを体験せずに帰るのでは、西表にきて学んだことはあるのでしょうか?
「西表の自然はこのように素晴らしく、貴重なのです。だからあなたも自然を大切にしましょう」そうエコツアーガイドに語られるよりも、オジーオバーが先祖代々受け継いできた方法で自然と共生している姿を見るほうが、その人の心に何かを響かせることが出来るのではないか?以前から僕はそう思っていました。でもそれを体験できるのは、西表島に住みオジーと酒を飲んだりオバーとユンタクしたりして地域に溶け込んでいる人間だけでした。

だから、この「干立ペンション村(この名称は好きではないが)」はそうした西表の本当の姿を観光客が体験できる数少ない場として期待しています。

今建設が進められている月が浜のリゾートと正反対のものになりそうですが、さてどちらが観光客に受け入れられるでしょうか。

神の家が建った

2002年9月18日
ついに昨日、フタデウガンのパイドゥンヤー(拝殿)が完成した。

老朽化の激しかった拝殿を建て直すこの工事は三年前から計画され、ついに今年8月から着工したのだ。司が様々な神行事でニンガイを行う場所であり、またミリク・オホホといった神が現れる場所であるこのパイドゥンヤーはいわば村のシンボル。これを七十年ぶりに立て直すというのだから、干立公民館にとっては一大事業だった。
自分の村のシンボルだから、当然自分たちの手で造る。この精神の元、工事は業者に頼まず寛好おじー(80)を棟梁に、大工経験のあるお年寄りを中心に、村の住民は仕事の合間や休日に出動して村人の手作りで建てた。ボランティア、僕がいつもしつこく言っているユイマールの作業で。
仕事が終わって一時間でも、釘の一本打つだけでも、瓦一枚運ぶだけでもといった気持ちでたくさんの村人が協力してこのパイドゥンヤーは完成した。

昨日の夜はその落成式が行われた。新築の素晴らしいパイドゥンヤーの前にテーブルを並べ、ヤマニンズの村人がおいしい料理と酒を楽しみながら祝っている。
そしてヤータカビの儀式が始まった。寛好おじーがユイピトゥキの枝を振りながら、みつおばーが太鼓を打ちながら、公民館長が銅鑼を打ちながらうたいだす。ヤータカビのうただ。うたの内容は「山奥から木を切り出して」「柱を立てて」「桁を上げて」「棟を上げて」「瓦を葺いて」といった家を建てる工程がうたわれている。干立では家が新築されるとこの儀式が行われ、うたがうたわれるがこのように歌詞の通りの工程で建てられた家は、何十年ぶりだろう。
この工事の期間中、おじーたちからは様々な伝統の技を見せてもらった。奥山から木を切り出す方法。木材に防白蟻効果をもたせる方法。木の接ぎかた。柱の立て方。棟上の時の儀式。もしこの工事が無かったら、若者に知られることも無く消えていったであろう技の数々。この機会を与えてくれたフタデウガンの神に感謝。
うたが終わると、酒が棟に向かってかけられた。

これでやっと、パイドゥンヤーは本当に完成した。。

魚巻き

2002年3月14日
いよいよ海の季節が始まった。
護岸を歩いていると、ぎまのおじーが船に燃料を入れている。
「おじー、蛸捕りに?」
「魚巻きに行くさ!」
魚巻きとは巻き網漁の事。
「おじー、俺も行くよ!」
冬はイノシシ猟師だったオジーは春になると稲作農家、そして農業の合間を縫ってウミンチュウに変身する。この日は祖納からきたオジーと3人で海に出た。

前の日に偵察して魚のいる場所を調べてきたオジーはまず網取にあるリーフ、ウーピーへ。西表島には島の全域に昔からの地名が残っている。それは陸だけではなく珊瑚礁の一つ一つにも名前がつけられていて、この島に住んでいた人々が遠い昔から島の自然を利用して暮らしてきた証拠でもある。

巻き網漁は干潮時、浅くなった珊瑚のリーフの上で行なわれる。まず船の上や岩の上から獲物である魚を探す。浅くなったリーフの上を泳ぐ魚の群れは時おりヒレを水面に覗かせてエサを食べている。
オジーたちはそんな魚の群れを発見すると魚に気付かれぬようこっそりと歩いて群れに忍び寄る。ここで二手に分かれ、網の持ち手2名は沖側にまわりこむ。追い込み役は魚の群れを監視しながら手信号で網の持ち手を誘導する。そして一瞬のチャンスを逃さず網の持ち手は半円に網を広げ、そこに追い込み役がリーフを走って魚を網へと追い込むのだ。このときは真剣勝負で、もたもたしていると容赦なくオジーの怒号・罵声が響きわたる。

この日の魚影は薄く、5ヵ所目でやっと魚を巻くことができた。捕れた獲物はボーダ、イラブチャー、シチュー。いずれも刺身に美味しい魚。でも数は少なく、おじーはがっくりと肩を落としていた。
「魚、どこに行ったか?」
「魚の種も尽きたかなー」

それでも帰ってからは楽しいブガリナオシ。祖納から来たおじーには今週法事があるからと一番大きな魚をあげて、ぎまのおじーは自分の取り分を全部さばいて肴に提供する。
昼間さんざん怒られたけど、
「お前をこれから鍛えていくからよ、明日も海に行くからよ!」
そう言われてうれしくて、酒もうまいし狩猟本能も満たされて、これだからやめられません。

ぎまのおじー

2002年1月19日
昨夜はぎまのおじーの家に行って飲んできた。
昼におじーの家の前を通った時カマイの解体をやっていて、
「夕方まわってこいよ!」
と言われた。
夜飲みに来い、という意味。

ぎまのおじーはカマイを獲ると、必ず人を呼んで飲み会をやる。皆でその日獲れたカマイを食べるのだ。刺身、肝、照子おばーの作ったカマイ汁や血イリチャー…

普通カマイを獲る人はこういうことはしない。ほとんどの人が売るためにカマイを獲るから。肉も骨も内臓も冷凍して、売るためにとっておく。

昔冷凍庫が無かった時代、誰かがカマイを獲ると近所の人たちが集まって皆で食べていたそうだ。カマイだけでなく魚など他の獲物がたくさん取れたときも同様に、皆で分け合うというスタイルでお互いが助け合っていた。ユイマールの精神につながる相互扶助のやり方だった。

しかし今はカマイも冷凍保存が可能になり、高く売れるため、ぎまのおじーのようにカマイを食べる人は少なくなった。

おじーもある程度の肉は保存して買い手がいたら売る。でもおじーは最初から商売で獲ろうとはしない。あくまで自家消費程度の感覚で罠をかけている。

ぎまのおじーは冬のカマイの時期が終わると機械・農薬を使わない伝統農法で米を作る。苗を植える時は干立や祖納から人がやってきて皆で手植えをする。ユイマールだ。田植えが終わるとシコヤ(田小屋)で田植ビジラーという古謡を謡う。そして夏は網をかついで海に行きマキアンという漁法で魚をたくさん獲ってきて、やっぱり人を集めて魚を食べながら酒を飲む。そうして一年が過ぎていく。

ぎまのおじーは昔から変わらないリズムで、自然と伝統の中で生活している。

酒をかついでおじーの家にいくとそんなに広くない家にたくさんの人が入って飲んでいる。てるこおばーは「また飲んで!」て怒るけど、いろんな料理を次々出してくる。
「もう食べきれないよ、おばー」
「遠慮するな、もっと食べれ!」

今朝二日酔い気味で目を覚ますともう8時だった。今日はぎまのおじーの種まきの日。田んぼに行くともう苗代を作っている。西表でも苗代で苗を育てて田植えをするのはぎまのおじーくらい。水牛に田んぼを耕させて、手で苗を植えて古謡を謡う。伝統農法を大事に守っているぎまのおじーの米作りが始まった。

雨乞い

2002年1月17日
昨晩、本当に久しぶりに雨が降った。

ずっと冬とは思えない陽気で、いい天気が続いていた。いくら西表でもこの季節に夜もTシャツで過ごせるほど暖かいのは異常である。個人的には暖かくて結構なのだが、雨が少ないのが心配だった。2月から始まる日本一早い田植えにむけて、稲の種まきの時期に入っているからだ。米を作っている人たちは沢の水がかなり減っているのを気にしてた。

一昨日、カマイが取れたのでおじーたちと飲んでいた時やはり天気の話になった。
おじー「おい、お前明日アマウガンに行って石投げてこい」
僕「??」
おじーの話を聞くと、アマウガンに石を投げると雨が降るという言い伝えがあるそうだ。

翌日、僕は半信半疑ながらアマウガンに行くと近くの石を拾って鳥居の中に投げ込んだ。鳥居から先は急な斜面になっているため、投げ込んだ石は他の石と一緒に転がり落ちてくる。おじーの話ではこれが雨を呼ぶそうだ。
さてその晩。
本当に降っってんの、雨が。それもバケツの水をひっくり返したような大雨。びっくりした。

おじーの話では昔は正式な雨乞いの儀式があったそうだ。浦内川の今は観光船の発着所になっている付近の軍艦石。干立の人はあそこまで行ってかつて雨乞いの儀式をしていたそうだ。その時は全身を草で覆った神が現れていたらしい。今の神よりもずっと原始的な姿をしていた神が。

今80歳のおじーが尋常小学校4年の時に見たのが最後、というのでもう失われた儀式だ。神への祝詞も覚えている人はいないそうだ。

現代では水道も普及し、食料も豊富で干ばつに対する昔のような危機感はない。必要性の無くなった儀式は忘れられる運命にあるのだろうか。

一緒に飲んでいた50代のおじーが、若い時軍艦石の近くにある雨乞いの石を川の水でぬらしたところみるみるうちに空が曇って雨が降ったことがあったと言った。

西表で生活していると時々神の存在を感じる瞬間がある。
軍艦石の雨乞いの神は今もあそこに居るのだろうか。

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